昭和四十九年十一月二十五日 朝の御理解


御理解 第七十四節 「かわいいと思う心が神心じゃ」


 神心というのはお道の信心の、信心を、進めて行く最高の目指しだと思うです。お道の信心をさせて頂くものは、まずこの神心を目指して進むのです。
 神心と言うのは、仏教で言う慈悲心とか、キリスト教で言う愛の心とか、と言う慈悲とか愛とかというものよりもっと複雑なものも、みんなひっくるめての内容を持っているのが神心です。だから、神心というのは最高のいわば心なんです。その心を目指すのが金 光様の御信心なんです。
 夕べ私は、一時頃一寸気にかかる事がありましたから、お広前に出て参りました。その途中で、丁度若先生達が、部屋の横を通りましたら、孫が何か火のつく様に泣いているのです。暫く立ち止まってから様子を見ておりましたが、泣き止みません。それで、どうかあるのだろうと思うて、それからあそこで立ち止まって、御祈念させて頂きました。
 まあひとせん泣きましたが、その御祈念をしております内にです、私の心の中に可愛いもんですよね、私はあの泣き声を聞くというのが一番嫌いです。この赤ちゃんの泣き声でも、聞くのはどうにもこうにもならんものを感じるです。ましてや火のつく様に泣いておるときは、何か苦しいことがあるときですからね。
 そのことを祈らせて頂いとりましたら、祈りの中にふっとこの可愛い子供をね、親が捨てる様な子供がある。新聞紙上でいつも、最近は見ますね。本当に例えば捨てられた子供がです、それこそ死ぬる子もあれば、助かる子もありますけど、その間に随分あんな風に火のつく様に泣いたであろうけれども、誰も気が付かなかった。そしたらもう死んでおったとか、又泣き声を聞いて誰かが拾い上げたということを聞くのですけれども。そのことを思わしてもらいよったら、もうこっちの方が悲しゅうなってきた。
 世の中にはそういう様に、火の付く様に泣きながら何かを訴え、助けて欲しいという人達が、これはもう大人、子供ではありません。様々な難儀、苦しい時には、それこそ泣いて叫びたいほどしに、救いを求めておる人達が、この地球上には沢山あることだろう。
 今、どこか南方の方の子供たちが、餓死寸前にある。それで義援金を募集しておるという様な、テレビで毎日見せてもらいますね。もうそれこそやせ細ってですね、子供たちが、いわば食べるに食なしです。食物もない。もうミイラの様な姿でテレビの画面に映ります。
 そういう例えば、深刻な人達、そういう人達がです、それこそ本当に助けて欲しい、助けてくれというて叫んでおる人達の事やら、その御祈念をさして頂いている間、一瞬にしてそういういろいろなことを思うんです。
 思うて気になることがあるから、ここへ出て来たんですけれども、そのことはもう何か忘れた様な気になって、もう世界中のいうならば、それこそ血の出る様な思いで助けてくれと願い、救いを求めておる人達のこと、もう本気で祈らなければおられない気がしたんです。段々に私は、神心に近い心じゃなかろうかと思うですね。
 昨日、いつも九時頃下がらしてもらうのですけどね、昨日は丁度お取次を願う人達がございましたもんですから、丁度十時頃までここに座っとりました。そしたら、けたたましゅう電話がかかってまいりました。
 いうならば、合楽の様子を知らない方らしいんです。十時頃かけて来るのですから、それが電話を受けて見ますと、北野の日吉長吉さんという青年会員がおりますが、その日吉長吉さんの知り合いの者でございますとこう言うのです。
 一回も先生にお目にかかったことはありませんが、のっぴきならん苦しいことがおこってまいりまして、どうしてよいかわからんのでお電話をさして頂いて、親先生のお言葉を頂きたいと思うとこう言うのです。で、まずお名前は何というのですかと、言いますと、太田誠、三十七才の男子ですと言うのです。
 そして今、どこにおられるんですかと言うたら、福岡におりますという。どういうことで苦しんでおられるんですかと言ったら、もうそれが先生、もう恥ずかしい話なんですが、余り遊び過ぎてお金が足らなくなり、借金が借金を生んで、利が利を生んで、もう今日という今日はどうにも出来ない立場に至っとりますので、どうしたらよいでしょうかと。どうしたらよいかといったって、それだけしか言わんのだから、私はわからん。そして電話を聞いとりましたら、私の御心眼に頂きますことが、『親』という字を頂くんです。
 その親という字の半分の立つという字を書いて下に木という字を書くでしょう、それにこちらに見ると書いて親という字です。
 親の心というものは、例えば、それこそ屑の子ほど可愛い、放蕩な子供どもがあって、家出でもしておるとです、もうそれこそもうお前の様なやつは勘当だいうて出しておる子供でありましても、さあ雨が降るとか、風が吹くとか、寒いの暑いのという時には、今頃どうしとるだろうかと、思うのが親の心です。もうお前の様な者は親でもない子でもないと言うておっても、やはりそう感じるのが親の心です。
 ひょっとして、あれがお詫びをして帰って来るかも知れない。風で表の戸がカタカタと夜中にでもいうと、ひょっとしてあの子供が帰って来とるとじゃなかろうかというような心、それが親の心なのです。もうお前の様な奴は勘当だ、もうかまわんと言うたから、それで縁が切れた様な思いということは決してない。それが親子。
 親という字は、だからそういう子供がどこか遠い所にでも行っておる。帰ってこない。それが帰って来たりせんだろうかと、木の上に立って見るという字が、高いところに上がって子供が帰って来てどんおらんだろうかと、木の上に立って見るそれが親だ、親心だ。
 親という字は木の上に立って見ると書いてある。それが親心。その半分のもの、木の上に立って、立つというところだけを頂きますからね。私は申しました。「あのね、あなたはすぐ親元に帰りなさいと。あなたは大体親ごさんは居られるんですか」と。「はいおります」「どちらに居られるんですか」「熊本です」とこういう。「そんなら熊本にお帰りなさい。もうとにかくすぐお帰りなさい。そして親に相談をなさい。そして福岡から熊本なら途中が久留米ですから、合楽に立ち寄って、そして詳しくあなたの言い分も聞かしても、もらおう。神様に又改めてお願いもさせて頂こうから」と。「ならそうさせて頂きます」という事でしたから、今日は恐らく見えるだろうと思います。そして熊本の親元の方へ行かれることになるでしょう。
 そういうです、例えば親心を無視する様なことではね、私は神心などということは到底分からないと思うです。いくら信心しとってもです、親の心がわからずして、神心がわかるはずはないじゃないですか。神心というのはもうひとつ、もうひとつ最高の心であります。今、申します様に仏教の慈悲心、キリスト教の愛の心、それよりももっともっと複雑な、愛とか慈悲とかという、もっともつと複雑な心が含まれておるのがこの神心です。
 可愛いと思う心が神心。だからこの神心を目指すのが信心なのです。お道の信心さして頂く者は総生神を目指す。「この方のことを生神生神と言うが、皆もその様なおかげが受けられる。生神とはここに神が生まれるということであって」と仰せられる様に、自分で自分の心を拝みたい様な心。
 昨夜私が、夜中に孫の泣き声を聞いて、そしてその何かどこか痛い苦しいことがあるのだろうかと、御祈念させて頂いておる内に私の心は、その子供の泣き声の中から、世の中に世間に、それこそ血を絞る様な思いで絶叫しながら、泣いて訴えながら助けを求めておる人達が、この地球上にどれほどおるか分からないと思うたら、孫の泣き声の中から私は祈る内に世界中の難儀な氏子のことを、とにかく一生懸命願わにゃおられなかった。
 夜中に出て来るのですから。あるいは心の中にひっかかることがあって、御祈念に出て来たんですけれども、もうそのことは忘れてしもうて、世界中のいうなら泣いて訴えて、救いを求めておる人達のことを、祈らずにはおられなかった。
 私は思うのですけれどもね、そういう人達、例えば食を求めている人達に食を与える。お金を求めている人達にお金を与える。これはね、私は小さい愛であったり慈悲であると思います。
 私が願うところ、もう天地金乃神様のおかげを頂かなければでけん。金を与えたり着物を与えたり食物を与えたり位のことで、ただ一部の人を救い助けることは出来ましょうけれども、それでは本当の助けることにはならんのです。
 昨日は、若い方達とそういう事の話、いわゆる問答をいたしました。なかなか立派な考えを持って商売人、合楽の先生は、根っからの商売人だそうだから、自分達商売人としての生き方というかあり方が、まあ私と話し合うというか、まあ聞きたい。又自分達の言い分、話も聞いてもらいたいと言った事ではなかったでしょうか。四、五人の方にお話をさして頂いたことでした。
 立派なことを言っておられるですね。とにかく商売人がね愛の心を持って、商品に対してでも、又はお客様に対してでも、愛の心を私はモットーとしとるとこう言うのです。本当に素晴らしいですね。
 金光教で真とか、神心というが、本当に私は商品でも拝めれる心。お客さんでも拝めれる心。という様なことを私共は申しますけれども、素晴らしい生き方ですね。そしてそういうあり方であるのに、例えば商売が繁昌せんのはどういうことかとこう言うのです。
 又いろんな、私がね、お道の信心させて頂く、こんど合楽の商いをなさっている方達ばかりで、しかもいよいよ本気で商売でおかげを頂かねばならない。いよいよお商売でもうけさせてもらわなけりゃならん。そして神様に喜んでもらう様な商人にならしてもらわにゃならんという人達ばかりの集いが出来る事になっとります。福神会、福の神の会ということを私は頂くんです。けども福の神の会なんてんちゃ、あんまりこうがめついごたる感じがしましたからね、富久信会という会が、今度新たに生まれる。
 佐田さんとか、高橋さんあたりのいわゆる、根っからの商人ですけれど、と同時に信心によっておかげを頂かなければならないという人達のいうならば集まりなんです。だからもう本気で商売でおかげを頂こうという根性の人達だけの集まり。商売どんしながら他のことを思うたり、考えたりする様な者はかてられない。本気で商売によっておかげを頂きしかも神様に喜んで頂く様な商人にお取立頂きたいという様な、願いを持っている人達の集いであります。
 恐らく福神会ですから、福神、いうなら大黒様の、いうなら御利益が確かにあることだろうと思います。ですから神様に喜んで頂けれる商売。いうなら神様のお役に立たせて頂く商人として、お取り立て頂きたい。いうならば、ならお供えでもどんどん出来る様なおかげを頂く、という様な意味のお話をさせて頂いたら、若い方達が、私は神様だけに喜んで頂くとじゃいかんと思いますとこう言う。人間に喜んでもらう、むしろお客さんに喜んでもらう。お客さんにお還しをするのでなからにゃいけんと思うとこう言う。そうです。私の主義はそうですとこういうわけなんです。
 だから素晴らしいですねと。けれどもいくら人間に還しても、お客さんに還しても、それは喜ぼう、商売も繁昌するか知れんけども、いよいよの本当の繁昌にはならないよ。いうなら親の代より子の代、子の代より孫の代といった様な繁昌にはならない。ここんところの意味がわからない様ですね。
 神様に、例えばお供えをするよりもです、いうならば人にお客さんに還す。いうならばお客さんに還元をするというのです。ここんところ決してお客さんから、よけいもうけてから、それをお供えするというのではありません。還元というのは神様にお還しをして行く。これはね、いうならばもう限りないおかげにつながるのです。それはなぜかというとです、例えば、私、又は合楽教会がいうならば、神様の願いに応えさせて頂こうという主義のもとにここの教会が出来ているのです。いわゆる合楽示現活動に参画するとはそういうことなのです。
 天地の親神様。ならここで皆さんが、どれだけのお供えをなさってもです、それが天地金乃神様のいうならばお喜び下さる事だけにしか使わんのです。だからこれならば絶対還元だけではなくて、かえって来るのです。これは、只お客さんが喜ぶといった様な小さいものじゃないのです。だからもしなら間違って、私が、なら皆さんがお供えをなさるのをです、贅沢三昧に使ったりといった様なことであったら、教会もつぶれる様な結果になるでしょう。お供えをした人も、そのためかえっておかげを落とすでしょう。
 けれども合楽示現活動のために、行使されるというか使われるといった様な事になる限り、もうこれが本当の意味においての還元になるのです。それが出来ることのために精進するのです。
 私は、今日は神心というところに、妙なお話を持って来たんですけれども、例えば私が昨日、孫のことから、そして世界中にそれこそ血の出る様な絶叫をしながら、助け救いを求めておる人達に対してです、私が例えば、与え恵むといった様なことは、そういうちっぽけなものじゃない。天地金乃神様のおかげを頂いて、世界中が潤わなければならない。それには天地の親神様の願いであるところの合楽示現活動に参画さしてもろうて、そういう御用に本気に立たせてもらう。天地の親神様がおかげを下さる。私が恵むのではなくて、天地の親神様から一様に恵んでもらう、助けてもらわねばならん。ということが聞いてもらいたかったから、今の話をしたんです。
 信心さして頂くものはです、いわゆる神心を目指さなければならない。それにはまず、夕べ遅く掛かって来たという、電話のかかって来たというそのことからです。親の思い、いうならば神心がわかる前に、まず親心をわかれと。親の心がわからにゃ信心は出来ません。親心がわかってです、それから神心がわからにゃいけません。いや神心がわからにゃ神心に向かって進んで行かねばいけません。
 そしてその神心をもって、私共が様々な御用に携わらせて頂く。特に今度出来る富久信会の方達がです、そういう大きな願いのもとにです。商売人はもう儲けることが主です。その本当に儲けさせて頂くためには、もうそれこそ、お客さんが喜んでさえ下さればよいという生き方で行けば神様の心にかなうから、儲けるのじゃない、神様が儲けさせて下さるです。絶対ですこれは。
 儲けるのじゃいかんです。だから神様が喜んで下さる様な心というのは神心です。喜んで頂く様な商人にならして下さい。おかげを頂かして下さい。ならば神様が世界中の氏子を助けにゃおかんといわれる、そのお心に参画させて頂くところのおかげを頂かにゃいけんです。それを合楽示現活動に参画するという事になります。
 商人の方達が、なら合楽示現活動にお金を持って参画することになりましょうか。それが神様のお喜びであるからこそです、それこそ千円お供えすりゃ一万円、一万円お供えすりゃ十万円、まあこれは言葉の、わかりやすく言ってる訳ですよ。
 そういうおかげの頂けれるおかげの世界が、いよいよ広がって行くことも間違いないです。ただお客さんが喜んで下さることがです、ただお客さんに還元をするといった様なことはもう、小さい小さいいうなら人間商人の考え方です。そういう意味でです、今日は神心を聞いて頂いた。
 まず親心、親心が分からなければ、そしていよいよ皆さんが神様に喜んで頂けれる様な氏子にお取立てを頂きたい。富久信会の方達はです、神様に喜んで頂く様な商人にお取立てを頂きたい。なら神様にお喜び頂ける商人というのは沢山儲けて、沢山お供えの出来る様なおかげを頂くということなのです。そこには一万円のお供えが出来れば、もう次には十万円のお供えが出来る様なおかげが頂けるに違いないです。十万円のお供えが出来るごとなりゃ百万円のお供えが出来る様に、おかげを下さることに間違いないです。
 今日私が申します根本のところをわかって、ただおかげば頂くけんお供えする。もう欲と引き替えの様なです、それでもね一つの理はあります。○○教じゃないけれども、病気でも何でも家屋敷を売ってからでもお供えすると病気が治るというそれとは違うです。
 それも一つの理ではありますよ。有り難く食べて有り難く出させてもらうちゅんですから。食べるだけ食べて出さんから不健康になって病気になっとるとじゃから。だから出しなさい出しなさいといった様な言い方が、その宗教の真になっとる様な宗教もないじゃない。だからそれもやっぱり理は理です。
 涼しい風が欲しいならば、ここを開けにゃならん。ここを開けただけじゃいかん、向こうも開けにゃいかん。あっちもこっちも開けてはじめて風がいつも流通する様なものです。そういう理もあるけれども、そういう意味で今日、私は聞いて頂いているのではない。どこまでも神心をいよいよ分からしてもらい神心に添わせて頂くという意味で聞いて頂いた。
 どうぞ金光教の信心でいう神心というのは、それこそキリスト教でいう、または仏教でいう慈悲とか愛とかいうものではない。もっともっと、とてつもない大きな心なんです。もうこれには愛とか慈悲とかもちろん含まれとりますけども、それではないもう言葉では表現出来ない。複雑な願い思いが込められておるのが神心です。
 だから私共は神心を目指さしてもらうところの信心。孫の泣き声を聞いて、いうならば親心が出て来た。かわいいと思う。かわいそうと思う。なんで泣いとるんだろうかと思う、その思いが段々広がって行って、それこそ世界中の難儀な氏子の願いをね、その泣き声の中から聞きとらせて頂く様な感じを受けてね、そのことを神様にお取次さしてもらい、願わしてもらはなければおられない様な心の状態に広がって行くということは、素晴らしい事だなと自分ながら思わせて頂いた。どうぞ。